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鴎座俳句会&松田ひろむの広場

鴎座俳句会&松田ひろむの広場

池田俊二さんへの回答

痰のつまりし仏―池田俊二さんへの回答
   松田ひろむ

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな     正岡 子規
おととひの糸瓜の水もとらざりき  正岡 子規
子規の絶句です。助動詞「き」の「完了存続」(つまりし)と「目睹回想」(とらざりき)の二つの用例の見本のような句です。
しかし、池田俊二さんは「き」に完了存続はないと強弁します。
「痰のつまりし」について池田俊二さんは「俳句界」十一月号で

この「し」は多分正用でせう。「佛」とは子規が死後の自分を想像して言つたものと解釈した上でのことですが、とすれば「痰のつまりし」は明かに「過去」だからです。もしも、まだ生きてゐる、今の自分を「佛」と言つたのなら誤用です。「痰つまりたる」とでもすべきだつたでせう。(傍点=松田ひろむ)

となんとも歯切れの悪い文章です。池田俊二さんによれば過去(目睹回想)でない「し」は誤用なのですから、「多分正用」などはいかにも自信なさそうです。この句は子規が死後の自分を想像しているわけではありません。
だれが読んでも、子規はいま、ただいまの自分を「仏」といっているのです。「糸瓜咲て」「痰がつまって」(完了)それからずっと(存続)している仏(自分)なのです。
池田俊二さんが、不思議なのは瞬間動詞と継続動詞の区別を認めないことですが、それは次の機会にします。なお、瞬間動詞と継続動詞について述べているのは私だけではありません。
吉岡桂六さんは『俳句における日本語』(花神社)で、まさに正岡子規の「痰のつまりし」にふれて、

〈つまった〉のは過去の出来事であるが、その結果が現在に及んでいるのである。こういう違いが生ずるのは、〈き〉の働きというよりもむしろ、〈き〉が付く動詞の性質の違いによるものである。(中略)〈つまる〉は瞬間動詞と呼ばれ、状態の変化を表す動詞なのである。

と、私と同じ考えを述べています。(というより私が吉岡さんに学んだのですが)

池田俊二さんは「俳句界」十一月号で「「し」に完了用法?為忠の歌にあるから?」として、私の九月号、十月号の「文法の散歩道」に「感想」といいつつ反論をしています。池田俊二さんは「し」に「完了存続」はない。と繰り返しています。しかし、どんなに池田俊二さんがいっても、「し」に完了存続はあるのです。それが日本語の事実なのです。
正岡子規の糸瓜の句を「たぶん正用」「今の自分を「佛」と言つたのなら誤用」としかいえない池田俊二さんの「理論」は、明らかな誤りです。
なお、池田俊二さんの「感想」のおかげで、もう一度私の文章を見直したり、また新しい文献を入手したり、図書館に通ったりとずいぶん勉強させていただきました。ありがとうございました。私は過ちがあれば過ちとして認め、共通認識にたどり付きたいと思っていました。しかし再度たどりついた結論は、池田俊二さんとその師の萩野貞樹さんのお考えは、残念ながら誤っているということでした。

はじめに
私は
「き」(連体形は「し」)には平安末期以降から完了存続の用法があります。これは口語の「た」「である」と基本的に同じです。
として、
わが庭の咲きし桜をみわたせばさながら春の錦延(は)へけり(「為忠集」)
思ひきや賀茂の川波立ちまちにかわきし袖にかけんものとは(「広本拾玉集-四」)
を上げました。しかし池田俊二さんは「為忠集」は戯れ歌として、論拠とならないとしています。
池田俊二さんは「『旺文社全訳古語辞典』以外に理論的根拠はあるのですか」とも書いていますが、この歌を完了存続の例に挙げているのは、手元にあるものだけでも『ベネッセ古語辞典』『旺文社全訳古語辞典』『旺文社高校基礎古語辞典』『日本国語大辞典』第一版(小学館)があります。なお、作者を「二条為忠」(『為忠集』)としたのは、浅学でした。「為忠」なら「二条為忠」と思っていましたが「為忠」は何人もいました。ここは単に『為忠集』に訂正します。
 この引用を全部、戯れ歌を引用している、けしからんというのでしたら、それはそれでけっこうですが、それは私、松田ひろむにではなくベネッセコーポーレーション・旺文社・小学館に抗議あるいは訂正を申し入れてください。
『日本国語大辞典』第一版では、『為忠集』の前出歌とともに、
思ひきや賀茂の川波立ちまちにかわきし袖にかけんものとは(「広本拾玉集-四」)
をあげ、「後世では―――口語の「た」の、現在また完了(・・・ている)の意に用いられた例もみられる。」とあります。
これについて池田俊二さんは、『広辞苑』(第一版)をあげて、「広本拾玉集」について

3後世、誤って過去の動作・作用の結果の存続を表わす。・・・ている。

を論拠に、「誤って」とあるから、その引用自体を誤用としていますが、『広辞苑』(第五版)では、助動詞「き」について「室町時代以降は「た」と同じ意味で用いた。」とあります。どこにも「誤って」などという記載はありません。
どういうわけか、池田俊二さんは

『広辞苑』第一版(これは先述のとほり、最近のものほどにはでたらめな記述は多くなく、かなり信用できると思はれます。)

 といいますが、一般的に辞書は、初版の誤りを訂正し、あるいは充実して版を重ねるものです。最近、『広辞苑』自体を「左翼的」として攻撃する論調もありますが、それは本件とは別の話ですのでここでは触れません。
 これも第一版の「後世、誤って」の記述を「第五版」で削除したのはけしからんというのでしたら、これも岩波書店にどうぞ。なにやら、悪いのは、みんな私松田ひろむのせいだといわれるのは心外です。
 さらに、池田俊二さんは事実を平気で書き換える「癖」がありますが、これは物書きとしては致命的です。その一例をあげると池田さんは『広辞苑』第一版について「これは先述のとほり」とありますが、それまでに『広辞苑』にふれた部分はありません。(何回も読み返しましたが)これは「先述のとほり」として、あたかも自明のように思わせる詐術(トリック)でしょうか。
また「ただし、松田さんの好きらしい第五版ではなく」とありますが、そのような文章あるいは文脈は私の文章のどこにもありません。「好きらしい」が池田俊二さんの当てこすりというのなら分かりますが、これは「亀田家」のような無用な挑発です。第五版は私が現在使っている辞書の一つです。好きも嫌いもありません。
なお、池田俊二さんは、文章に「旧字」を用いていますが、引用部であっても、それを使用することは、当方にとっては大きな負担ですのでワープロの通常の字体(新字)を使用します。
 私自身、『広辞苑』第五版の記述については、
  この『広辞苑』の解説では、「き」は、今では口語の「た」と同じなのだと考えても不自然ではありません。
と批判的に書いています。これでは「き」は目睹完了だけに理解されますよ、しかし「き」には「目睹完了」と「完了存続」の二つがあり、それを記述すべきだと書いたのです。
 「誤って」とした『広辞苑』第一版の記載は、のちの『広辞苑』自身によって改訂されました。この時代の「き」の用法には確かに、当時の口語の「た」に引きずられた面があったのかもしれません。しかし誤っているわけではありません。
 ここで『広辞苑』の第二版(昭和三十年)を見てみましょう。これもたまたま手元にあったものです。
 「き」については

 4(稀に、動作・作用の結果が存続していることを表わす)・・・している。記下「瑞玉盞(みずたまうき)に浮きし脂落ちなづさひ」

となっています。この「し」もまさに眼前のもので完了存続です。「記下」というのは「古事記下巻」のことで、ここまで「し」の完了存続の用法が遡るのかどうか。これならなんといっても『古事記』ですから、「為忠集」や「広本拾玉集」はあてにならないという萩野貞樹・池田俊二さんも脱帽でしょう。
『広辞苑』も第二版では「き」の存続の用法を認めていたのです。このへんの『広辞苑』の記述の変遷には、興味がありますが、その理由はと考えると私の手にあまります。
 ところで「き」に完了存続があることは、後でもう一度ふれます。しかしその前に為忠について考えてみましょう。

為忠というひと
 池田俊二さんは萩野貞樹さんの著書を紹介して次のように書いています。

  藤原為忠といふ人は、藤原俊成や源頼政を歌人として育てたパトロン、歌壇のボスといつた存在のやうですが、俗言俗語も平気で使ふ型破りの人のやうです。為忠の勅撰入集のものをみると、たとへば『金葉和歌集』には、
宵のまにほのかに人を三日月の飽かで入りにし影そ恋ひしき
があります。しかし一見して「人を三(見)日月の」といふ懸詞の具合はまことに「雅」ではない。ほとんど大津絵節、三河万歳、安来節です。
  そもそもこの『為忠集』なるものは、為忠の歌を集めたものではなくて、後世、鎌倉期の趣味人が、あの為忠ならこんなものを作ったり喜んだりするんぢゃないか、とばかりに興じてまとめたものでせう。当時の俗書とみて結構です。(萩野貞樹『旧かなと親しむ』リヨン社)

萩野貞樹さんによると為忠は「俗言俗語も平気で使ふ型破りの人」「懸詞の具合はまことに「雅」ではない。」とけちょんけちょんですが、これは当代の歌を中心とした『金葉和歌集』(勅撰集ですが)の性格によるもので、為忠だけが「俗言俗語」を使っていたのではありません。
掛詞は、もともと和歌の特徴です。特別に為忠が「型破り」であったわけではありません。だから「為忠だったら」という、後段の推理も当たっていないことになります。
雅であるかないかはともあれ、その時代の歌は多かれ少なかれその時代を反映しているものなのです。しかも為忠については、前述のように「・・・存在のやうですが、俗言俗語も平気で使ふ型破りの人のやうです。」と「やうです」を繰り返して使っていますが、これではいかにも自信なさそうな文章となります。しかし為忠への罵倒は断定的です。「ほとんど大津絵節、三河万歳、安来節です。」という罵倒は、敬語にも詳しいはずの萩野さんにふさわしくありません。
 『金葉和歌集』については、次の解説が分かりやすいものです。

古今以来の伝統にとらわれず、同時代の歌人による新奇な作風な歌を多く取り入れ、誹諧趣向が目立つ。これが当時の歌壇に新風を吹き入れたのは確かだが、のち藤原俊成に批判される通り、「戯れの様」が過ぎて格調を欠く歌もあった。『金葉集』の田園趣味と写実的傾向は中世の到来を確実に知らせる。初めて連歌を雑下に分類して置いたことも、評価されるべき点であろう。(フリー百科事典『ウィキペディア』)

『為忠集』が、後世の鎌倉時代(あるいは室町時代)のもので、為忠に仮託したものであっても、私の論拠にはなんの変更もありません。「平安時代末期から」(『旺文社全訳古語辞典』)が不正確というなら『日本国語大辞典』と同じように「後世には」でしょうか。
池田俊二さんに対するよりも、萩野貞樹さんへの反論となってしまいました。どうやら、池田俊二さんの引用への反論よりも、萩野さんと直のほうが分かりやすいようです。
わが庭の咲きし桜をみわたせばさながら春の錦延(は)へけり(「為忠集」)
 もう一度この歌について見てみましょう。萩野貞樹さんは、この和歌の仮名遣いを誤りといいます。確かに「映える」なら「映へけり」ではなくて「映えけり」です。だから戯れ歌でしょうか。かな遣いでヤ行下二段活用の「え」を「へ」とする誤りは、古来より多いのです。「為忠」は池田俊二さんのいうように「高校一年程度の文法」を知らなかったとでもいうのでしょうか。
「わが庭の」の歌は平安時代の為忠に仮託したもので鎌倉時代の作と萩野さんはいいます。しかし最近の研究では室町時代に下るともいわれています。(福田智子・竹田正幸・南里一郎「情報処理学会研究報告」二〇〇〇年十月)
私は『為忠集』の「作者」は室町期の桜井基(もと)佐(すけ)(生没年不詳、一四五七年、一五〇九年の事例があります。)ではないかと推定しました。
正真正銘の平安末期の藤原為忠の歌は、「金葉和歌集」に収められています。
  みづがきの久しかるべき君が代を天照る神や空にしるらん
と、萩野さんが「雅でない」という
宵のまにほのかに人を三日月の飽かで入りにし影そ恋ひしき
の二首です。
 ところが「金葉集」で、この歌の直後の歌は
  吹く風にたえぬ梢の花よりもとゞめがたきは涙なりけり    源 雅光
です。今度は「堪えぬ」は誤りでハ行下二段ですので「堪へぬ」です。源雅光も仮名遣いを知らなかったのでしょうか。このような事例は多くあります。鎌倉(あるいは室町)時代の「為忠」も誤り、平安末期の源雅光も誤った仮名遣いとはいったいなんなのでしょうか。
 つまり、仮名遣いは、いやおうなしに当時の音韻に引きずられるという現実(平安時代も鎌倉時代も)があったのです。ハ行の子音は現代のHではなく、Fであったと言われています。「へ」も「え」も、音は今日よりはずっと似通っていたのです。
 蕪村に
  梅咲きぬどれがむめやらうめじゃやら
という、それこそ戯れ句がありますが、仮名遣いを皮肉っているのです。梅の当時の発音はMMEでした。それを表記する「かな」がなかったのです。(現代でもありませんが・・・)
 萩野さん、こういう現実を見ないで「為忠」を非難してもしようがないでしょう。
 「金葉集」(五五五)には
  いゑの風ふかぬ物ゆへはづかしの森のことの葉ちらしはてつる 
藤原顕輔朝臣
という、旧仮名の先生の萩野さんが眼を剥きそうな歌もあります。正しくは
  いへの風ふかぬ物ゆゑはづかしの森のことの葉ちらしはてつる 
ですね。どれも「え」「ゑ」「へ」の混用です。旧仮名主義者の萩野さん、正すのは現代の短歌や俳句だけでなく、平安時代から正して下さい。もっともありもしない理想の仮名遣いを主張しても、それは「顰にならう」といわれるだけでしょう。旧仮名には、こんな大きな問題が古くからあったのです。
 池田俊二さん、「あなたのお師匠さんは大丈夫ですか?」
 ところで、この項はまだ終りません。
 前段ではこの歌の「はえけり」を「映え」として解釈しましたが、ここは「延へ」とも解釈できます。「延へ」というのは今でも延縄(はえなわ)というように伸ばすことです。「延ふ」がハ行下二段活用なら、当然「延へ」でいいのです。
 この歌は「桜が(続いて)錦を延ばしている」という歌ではないでしょうか。ただし「延へ」は綱などもともと長いものにいうようですので、果して桜に適用したものかどうかははっきりしません。「映え」のか、「延へ」のか、あるいは掛詞なのか、それは、今後の問題としておきましょう。なお「延(は)へ」としているのは『旺文社全訳古語辞典』です。
墨縄を播倍(はへ)たる如く       山上憶良(万葉集五・八九四)
伊勢の海の海人の釣り縄うちはへてくるしとのみや思ひわたらむ 
読人知らず(「古今集」五一〇)
見越の大竹より杉の梢に蜘の糸筋はへて     (日本永代蔵四・二)
 こんな読みの可能性もあることを、萩野貞樹さんも池田俊二さんも考えなかったのでしょうか。(『日本国語大辞典』(小学館)他)
『新選国歌大観』第七巻(角川書店)では、この歌は
わがそののさきしさくらを見わたせばさながら春のにしきはえけり
となっています。いろいろ異同があるものですね。こうなると『為忠集』の原本を見ないといけないのですが、これ以上は困難ですので、ここでは問題提起に留めます。

慈円というひと
つぎに『広本拾玉集』について考えてみましょう。
 この『拾玉集』というのは、百人一首の「おほけなくうき世の民におほふかなわがたつそまに墨染の袖」でおなじみの慈円の歌集です。
 慈円(一一五五年―一二二五年)は、『愚管抄』で有名な鎌倉時代の天台宗の僧侶で、小倉百人一首では、「前大僧正慈円」となっています。
慈円は関白藤原忠通と加賀局(藤原仲光の娘)の子で忠通の第六子、九条兼実(のちの太政大臣・関白)の弟。幼いときに青蓮院に入り、鎌倉幕府成立の一一九二年(建久二年)、三十八歳で天台座主になっています。かの親鸞は一一八一年九歳の時に慈円によって得度を受けています。
 歌人としても著名で歌風は「おほやう西行がふりなり。すぐれたる哥、いづれの上手にも劣らず、むねと珍しき様(やう)を好まれき。そのふりに、多く人の口にある哥あり。(中略)されども、世の常にうるはしく詠みたる中に、最上の物どもはあり」(後鳥羽院御口伝『新編国歌大観』角川書店・他)と高く評価されています。『千載和歌集』などにも採られています。源平時代から鎌倉期をしたたかに生きた当時の最高のインテリといえるでしょう。家集『拾玉集』は慈円の没後の嘉暦年間(一三二六年―二八年)に、青蓮院座主の尊円親王が集成したものです。出所がはっきりしない『為忠集』とは異なるものです。
思ひきや賀茂の川波立ちまちにかわきし袖にかけんものとは
こうした慈円の、この「かわきし」が『広辞苑』第一版のいうように「後世、誤って過去の動作・作用の結果の存続を表わす。」(もちろん「誤り」というのは第一版のみ)というのなら、それはそれでいいのではないでしょうか。十二世紀といってもわれわれには、遥かな過去なのですから。
その当時の口語の完了の「た」を「し」にしたというのなら、萩野貞樹・池田俊二さんに非難されそうですが、事実そうで在ればそのような「用法があった。」でいいわけです。またそれが多数なら、「歌の影響で」そうした存続の「し」の用法が、当時の歌に生れたといってもいいでしょう。文法とは言語の現実を解釈するものなのですから。
しかし「き」の完了存続の用法はこれにとどまりません。
ようやく結論の段階になりました。
『日本国語大辞典』(第二版)は、「き」の用法について独立して解説しています。それによると

 「き」の活用はカ行系の活用とサ行系の活用の取り合わせである。そのうち少なくとも「し」は、次の例に見られるように、古くは変化の結果の状態(口語の「・・・している」の意味)を表わした。『古事記―中・歌謡』の「みつみつし 久米の 子らが 垣下に 植ゑ志(シ)椒(はじかみ)口 ひくく 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ」や『古事記―下・歌謡』の「下枝(しづえ)の 枝の末葉は あり衣(きぬ)の 三重の子が ささがせる 瑞玉盞(みずたまうき)に浮き志(シ)脂(あぶら) 落ちなづさひ 水こをろ こをろに」など。上述のようなテンスとしての過去の意味は、こうした変化の結果の状態というアスペクト的意味に発展して成立したものと思われる。

と、変化の結果の状態。つまり「完了存続」があるとしています。ただし「植ゑし」は、継続動詞、「浮きし」は瞬間動詞ですので、動詞の性格との関係はさらに検討しなければならないでしょう。
このように万葉期にはあった。鎌倉期(あるいは室町期)にはあった。芭蕉にも正岡子規にもあった「し」の完了存続の用法、それを否定することは出来ません。
池田俊二さんの論点はまだ多数ありますが、それへの回答は次の機会にしましょう。
池田俊二さん、現実の日本語(俳句)はこれまで述べたように、単純に正用、誤用で割り切れるものではありません。お互いに先人に学びつつ俳句の文法を考えて行きましょう。
(「俳句界」2008年3月号158ページ)


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